■見習いトレーナーの奮闘記■

【アラバマ編】
#3: プログラム合格まで

1998年の春学期、私は大学に入って初めて12単位以上(17)のクラスを取りました。勿論プログラムにトライアウトするためです。ISUからのトランスファークレジットがかなり認められた事は先にも書きましたが、それでもあの時の私にしてみれば限界である17単位をとらなければプログラムにアプライ出来ない状態でした。当時私がとっていたクラスはHAT258(テープ実習/オブザベーション)、HHE272(CPR)、BSC114(生物学)、BSC115(BSC114のラボ)、MATH111(数学)、EH121(英語)、CS102(コンピューターサイエンス)です。これら全てがプログラムにトライアウトするための必須クラスでした。

オブザベーションが終わり、待っていたのはインタビュー(面接)でした。あの時の緊張の仕方といったらありませんでした。名前が呼ばれるまで待っていた廊下での時間。永遠に続くかのように思われましたが、当時話した事も無かったクリスとアンドリューが「絶対大丈夫だ」と励ましてくれたのは覚えています。今となっては何を根拠に彼らがそういったのかは謎に包まれたままです。いよいよ名前が呼ばれて面接会場に入ると目の前に6、7人、奥にも数名、そして一番横にはプログラムのチェアマンであるDr.ライトが座っていました。私が覚えている限りでは面接官はディードリ(プログラムディレクター)、コーチマック(ヘッドトレーナー)、ジンジャー、ビー、ジョン(3人ともアシスタントトレーナー)、そしてクレッグ(ティーチングアシスタント)です。まだ誰かいたかもしれませんが覚えてません。なにせ部屋を出た瞬間に何を聞かれて何を答えたのかまったく覚えていなかったのですから。


ただ一つだけ覚えているのはコーチマックの質問でした。
「ISUから転校してきたということだが、どうしてアラバマに決めたのか?」
アラバマに決めた理由。それはDr.Writeの存在でした。1997年、ISUでオブザベーションをしていた私は馴れない英語や習慣のために明らかに自分の売り込み方に失敗していました。また英語をあまりしゃべらない環境にいた私は「これではプログラムに入れない」という危機感を感じはじめ、無理矢理でも英語を話す環境を得るために誰も知らない場所へ転校しようと決意しました。大学を決めるに当たってはかなり迷いました。プログラムがある大学をベースに学費やら気候やらスポーツの質やらで色々と的絞りを試みていましたが、実際どの大学がいいプログラムを持っているかというのはインターネットなどで調べていても分かる事ではありませんでした。そんな感じで困り果てていたとき、ISUのクラスの宿題でJournal of Athletic Trainingを読んでいたところ、そのジャーナルのエディターの欄にアラバマ大学のDr.Kenneth Wrightの名前を見つけました。もともとアラバマは私の転校候補に挙げられていたのですが、これを見たとき、「このジャーナルの監修に参加している人がいる大学なのだからいいプログラムを持っているに違いない」と勝手に思い込み、一気にアラバマ大学転校の道を進む事にしたのです。

これが私の本当の転校の理由でした。正しい英語を使っていたとは到底思えません。しかし、必死でしゃべっていたのは良く覚えています。ただ気がかりだったのはその場にいたDr.Wrightの反応でした。少なからず、もし私の英語が理解可能であれば、おだてたわけではないにしろDr.Wrightにしてみればそんなに悪い気になる要素も無いと思ったのですが、私がしゃべり終えてその本人の顔をちらっと覗いてみると笑っているとおもいきや、とんでもない。無表情でじっとこちらを見ているではありませんか。この時ばかりは言わなきゃよかったかと思いました。英語が分からなかったのか、もしくは私の発言がただのごますりにしか聞こえなかったのか。真相は分かりかねますが、あの無表情、一体何を意味していたのでしょうか。

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